

県内では現存する最古の西洋館
フランス人神父クレマンが建設
明治10年代の後半に布教のため来松したクレマン神父は、定住して布教するための教会建設用地を旧三の丸武家屋敷跡に求めました。彼は、明治22年(1889)、宣教師と伝道師のための住居である建物を自ら設計し、地元の大工さんに作らせました。これが、司祭館です。
平成元年(1989)、司祭館の建っていた場所は道路拡幅改良事業により教会の再配置等が必要となりました。再配置の計画を知った市教育委員会は、この建物が専門家から高い評価を得ており、その意義を理解していたこともあって教会と交渉の結果、松本カトリック教会から司祭館の寄附を受け、現在地に解体移築復原することになりました。この事業は市が主体となり、民間の寄附を受けて実施されました。解体は平成2年、旧開智学校校舎西側の現在地に移築復元されたのは平成3年11月のことです。
北面にベランダを設ける。
司祭館の構造は左右対称の二階建てで、各部屋に暖炉が設けられています。窓は普通のものより縦長で、観音開きの鎧戸(よろいど)がつき、ワインを貯蔵した地下室などを備えています。外の下見板張りの技法はアーリー・アメリカン様式の特徴を伝え、さらにイギリス積みレンガ基礎により建物を支えるなど、純西洋館の姿をとどめています。クレマン神父は自分の育ったところの伝統を重んじたのでしょうか。
建物の北面にベランダがあるのは、建築された当時、旧三の丸に残る土塁の北側に広がる林や家並みなどの景観が美しかったからといわれます。デッキチェアーに腰掛けてくつろぐクレマン神父の姿が想像できます。
なお、この司祭館はセスラン神父が明治34年(1901)から27年の歳月を費やし、日本で初の本格的な日仏辞典である『和仏大辞典』を編さんし始めた場所でもあります。
自分で設計して地元の大工さんに作らせたのですね。各部屋に暖炉があるものの、とてもこじんまりしていて質素な印象です。



神父は長いこと住まわれ、一旦本国に帰国してもまた希望して来日して下さったそう。異国にこうやって根を張るのも様々な苦労があったと思うんですが、布教目的とは言え日本の土地、生活を愛し楽しんでくれたというのは嬉しいです。
旧開智学校と司祭館を見終わってこの辺りの観光は終了。そして旧松本高等学校本館と講堂にも行きたかったのですが、チェックアウトの11:00には間に合わなそう(この時点ではまだ延長していなかったので)。取りあえず一旦ホテルに戻らなきゃ…などと考えていたら、ここからほど近い高橋家住宅という武家住宅もあったのに見に行くのをすっかり忘れてしまいました…。
取りあえずタウンスニーカーに乗って、ホテル近辺まで戻る途中、ホテルスタッフ手作りの新まつもと巡りに市役所の展望室からの眺めもいいとあったので市役所前で下車して市役所へ。
が、市役所に入っても展望室のテの字もなくハテ???
受付けの女性に聞くと、5階までエレベーターに乗ってそこから階段で行けますとのこと。なるほど。で、5階からどのくらい階段を登るのか念のため聞いたところ「わかりません」とキッパリ(呆)。
別に階段は何段あるのかって聞いてるわけじゃなくて、1階程度なのか3-4階登らなきゃならないのかどのくらいなのか、って意味で聞いたんですけどね、(わからないってことあるの?)と不思議だったんですけれど、さすがお役所対応だわ~と別の意味で感心(笑)。ま、どう見ても私は市民じゃないので、市民サービスの範疇じゃないですからね。はいはい、わかりました、わかりました、ありがとう。

因みに職員の方が普通に仕事をして市民が出入りする5階から階段で2階分ぐらいだったと思います。1階登ったところも眺望はあるんですが、もう1階上がると展望室。確か3方だったか4方だったがガラス張りの小さな空間で外へは出られません。ある意味放置された展望室って感じで、私が行った時も他に人はいませんでした。
まぁ職員さんが仕事をしているところから行くし、特に案内も出てないし、エレベーターの階表示にもないので聞かなきゃわからない、聞いてもあの有り様、ということは余り観光客には来て欲しくないのかもしれないですねー。
でもこの辺りに行かれるなら立ち寄ってみるといいと思いますよ(受付のお姉さんには聞かず、そのままスタコラサッサッとエレベーターに乗って5階へ行くのがよろしいかと(笑))。