2009年 04月 12日
みちのくの浄土
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この陽気なので、砧公園はさすがに遊びに来ている人がいっぱい。
犬を連れて、
子供を連れて、
デッキチェア持参で、
ごろんと寝転がって、
走りまわって、
自転車に乗って、
公園って、こんなに人が来るものなのね。何があるってわけじゃないところに、何をするってわけでもなく行くのがいいのかな。
考えてみたら、私はこういう大きい公園にわざわざ行って遊んだことって余り行ったことないかも。町内の子供たち御用達の公園と言えば、私の頃は近所の子供たちだけで行ける近くの芦花恒春園。それでもセミ取りとか、どんぐり拾いとかに行く程度で、走りまわったり缶蹴りしたり、毎日まるで部活のように本格的に遊ぶ(笑)のは、もっぱら家の前の数十メートルの道を含め、よその家の中以外(つまりよその家の敷地も)だったし。
幸い年齢差6、7歳までの町内の子供がいつも一緒くたに遊んでいたから「お互い様」だったのか、敷地に入り込んでもそうそう目くじら立てる人も居なかった時代。今は宅地の境界も生垣じゃなくてキッチリ区切られてるし、よその家の敷地に入り込むなんてとんでもないし、道路は危ないし、子供が惹かれる様な'隙'とか'影'とか'死角'も町自体になさそうだし、ワーワーうるさくしてるとご近所の目もあるし、ノビノビ遊ぶなら公園へ行こう!ってなるのかな。
今日は風が結構あったので、土埃が公園を駆け抜けてるのを遠目で見て、「土埃の立つところに来たなんて、いつ以来だろー」なんて思っちゃった。どんだけコンクリートの上だけでしか暮らしてないんだか。まったく。お陰で、土埃&環8際でのバス待ち排気ガスシャワーとで鼻がムズムズ。
と、別にわざわざ砧公園に散歩に行ったのではなくて、目的は「平泉~みちのくの浄土~特別展」@世田谷美術館。
う~ん、このところ「三井寺展」「阿修羅展」そしてこの「平泉」と仏像続きで、ありがたさや感動が薄れて来てしまったんだろうか。
え~、非常に曖昧で遠回しですが、これが感想。ではマズいか(笑)。
あ、でも中尊寺ではあんなに至近距離で金色堂壇上諸仏を拝むことが出来ないらしいので、金色堂からお出まし頂いて、我々の近くに寄って下さった、じゃなくて我々を近くに寄せて下さったなんて大層ありがたいということ。
'第1章 みちのくの古代・みちのくの祈り'に展示されていた像は、東北の仏像あれこれ。木彫りの仏像はディテールやバランスなんか気にしない気にしないと言う感じでズドーンと素朴。土着の神様のようにも見え、岩手・天台寺の像などは、こけしのようでも。手を合わせて拝むというより、腕を回してキュッと抱きしめたくなるような親しみがあるというか。そんな仏像さまを見ていると、電車も飛行機もないその昔は想像もつかないほど、地理的にも文化的にもそりゃ遠い遠い遥か彼方の地だった、中央の人も物も技も大変な努力で辿り着いたのだろうなぁ、と。
個人的に今回見てみたいな、と思っていたのは先月末に世界遺産・旅の雑学サロン 第12回「高野山(紀伊山地の霊場と参詣道)~世界遺産「高野山」と人々の祈り~」に出席した時だったか、平泉の紺地金銀字一切経(中尊寺経)の殆どは高野山・金剛峯寺にあると知ったこともあって、その紺地金銀字一切経(中尊寺経)。
紺地に金と銀の文字や見返絵だからゴージャス。あ、ゴージャスという言葉は祈りに似つかわしくないか。でも、昔々は蝋燭(や油?)の弱い明かりが灯るだけ。そこここに闇や影があった中で、今の照明の下で見る金ピカと昔はまた違う輝きと意味があったのだろうな、と。
ゴージャスと言えば(また言うか)、美術館入り口に展示されている金色堂復元模型。キッラキラ。現在の金色堂は鉄筋コンクリートの覆堂で保護されて、その上ガラスケースで保存されているそう。
この模型が縮尺は5分の1だそうで、実物もそう大きくない、となるとさらにその中の須弥壇もそう大きくない、なのでそこに乗っている諸仏も大きくはない。で、あの小ぶりの阿弥陀如来やその他の仏像となるわけか。
なるほど。現地で実物を見たことがないので、どうもスケールがわからなくて、昔、教科書や授業で「中尊寺の金色堂」と習った時には、もっと大きいものとして勝手にインプットされていたのだけれども案外小さいのですね。その割りには須弥壇の上、密集。可愛いサイズの諸仏、てんこ盛り。
最終章'祈りとまつり'は観光地にある民族資料館風。明るく、中央に置かれたソファーにはオバちゃんたちがしばし休憩、壁面の立ち見の映像は家電店の店頭でTVを立ち見する人だかりのよう。全体を通して照明や展示の演出が余りされていないのかな~という感じ(いや、私が感じなかっただけだと思うのだけど)だったけれど、色々な展示品を集めて「浄土の世界」を表すのは難しいのだろうなぁという印象。1つ1つのものは大変貴重なもので浄土信仰の断片なのだろうけれども、それを繫ぎ合わせて浄土の世界として'絵'で思い浮かべるのは、CG復元や平泉諸寺参詣曼荼羅図を見て頭では「そうなんだ」と思ってもなかなか難しいものなのね。もしかしたら毛越寺の庭園に佇めば一目で'世界'感じることができるのかな。
あ、そうそう。
最近は音声ガイドもタレントの○○さん吹き込みの音声ガイドとか普通なのね。利用する方も結構多くて。私、まだ1度も利用したことないのだけれど、耳で説明を聴いて目で見る・・・これはTVを見るのと同じなんじゃないだろうか、自分の頭で「あぁなんだ、こぅなんだ、ここは?あそこは?」と考えずに単に聞いたことを見る、みたいになっちゃわないんだろうか。耳と目はもう塞がっているから他の気がまわらないのか、周囲の状況も構わずテコでも動かず突っ立ったままの人を良く見掛けるんですよね。でも今度1度使ってみようかな。
さて、'浄土の世界'が人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」と認められて世界遺産の登録なるかどうか。観光資源のことを考えなければ、国特別史跡や特別名勝、国宝や重要文化財であるだけの方が、充分でより良い場合もあるってことはないんだろうか。個人的には、そこがワールドワイドの価値があるかないかは関係なく、興味があって惹かれれば足を運ぶのだけれど。
しっかし、このところ暑いですよね、初夏(笑)?
私の体は、これぐらいの気候が「寒くない」と感知していい感じなのだけれど、桜が散りかけの季節としてはどうなんでしょ。でも、思わず外を歩きたくなるランランルンルン季節で嬉しーッ。
犬を連れて、
子供を連れて、
デッキチェア持参で、
ごろんと寝転がって、
走りまわって、
自転車に乗って、
公園って、こんなに人が来るものなのね。何があるってわけじゃないところに、何をするってわけでもなく行くのがいいのかな。
考えてみたら、私はこういう大きい公園にわざわざ行って遊んだことって余り行ったことないかも。町内の子供たち御用達の公園と言えば、私の頃は近所の子供たちだけで行ける近くの芦花恒春園。それでもセミ取りとか、どんぐり拾いとかに行く程度で、走りまわったり缶蹴りしたり、毎日まるで部活のように本格的に遊ぶ(笑)のは、もっぱら家の前の数十メートルの道を含め、よその家の中以外(つまりよその家の敷地も)だったし。
幸い年齢差6、7歳までの町内の子供がいつも一緒くたに遊んでいたから「お互い様」だったのか、敷地に入り込んでもそうそう目くじら立てる人も居なかった時代。今は宅地の境界も生垣じゃなくてキッチリ区切られてるし、よその家の敷地に入り込むなんてとんでもないし、道路は危ないし、子供が惹かれる様な'隙'とか'影'とか'死角'も町自体になさそうだし、ワーワーうるさくしてるとご近所の目もあるし、ノビノビ遊ぶなら公園へ行こう!ってなるのかな。
今日は風が結構あったので、土埃が公園を駆け抜けてるのを遠目で見て、「土埃の立つところに来たなんて、いつ以来だろー」なんて思っちゃった。どんだけコンクリートの上だけでしか暮らしてないんだか。まったく。お陰で、土埃&環8際でのバス待ち排気ガスシャワーとで鼻がムズムズ。
と、別にわざわざ砧公園に散歩に行ったのではなくて、目的は「平泉~みちのくの浄土~特別展」@世田谷美術館。
う~ん、このところ「三井寺展」「阿修羅展」そしてこの「平泉」と仏像続きで、ありがたさや感動が薄れて来てしまったんだろうか。
え~、非常に曖昧で遠回しですが、これが感想。ではマズいか(笑)。
あ、でも中尊寺ではあんなに至近距離で金色堂壇上諸仏を拝むことが出来ないらしいので、金色堂からお出まし頂いて、我々の近くに寄って下さった、じゃなくて我々を近くに寄せて下さったなんて大層ありがたいということ。
'第1章 みちのくの古代・みちのくの祈り'に展示されていた像は、東北の仏像あれこれ。木彫りの仏像はディテールやバランスなんか気にしない気にしないと言う感じでズドーンと素朴。土着の神様のようにも見え、岩手・天台寺の像などは、こけしのようでも。手を合わせて拝むというより、腕を回してキュッと抱きしめたくなるような親しみがあるというか。そんな仏像さまを見ていると、電車も飛行機もないその昔は想像もつかないほど、地理的にも文化的にもそりゃ遠い遠い遥か彼方の地だった、中央の人も物も技も大変な努力で辿り着いたのだろうなぁ、と。
個人的に今回見てみたいな、と思っていたのは先月末に世界遺産・旅の雑学サロン 第12回「高野山(紀伊山地の霊場と参詣道)~世界遺産「高野山」と人々の祈り~」に出席した時だったか、平泉の紺地金銀字一切経(中尊寺経)の殆どは高野山・金剛峯寺にあると知ったこともあって、その紺地金銀字一切経(中尊寺経)。
紺地に金と銀の文字や見返絵だからゴージャス。あ、ゴージャスという言葉は祈りに似つかわしくないか。でも、昔々は蝋燭(や油?)の弱い明かりが灯るだけ。そこここに闇や影があった中で、今の照明の下で見る金ピカと昔はまた違う輝きと意味があったのだろうな、と。
ゴージャスと言えば(また言うか)、美術館入り口に展示されている金色堂復元模型。キッラキラ。現在の金色堂は鉄筋コンクリートの覆堂で保護されて、その上ガラスケースで保存されているそう。
この模型が縮尺は5分の1だそうで、実物もそう大きくない、となるとさらにその中の須弥壇もそう大きくない、なのでそこに乗っている諸仏も大きくはない。で、あの小ぶりの阿弥陀如来やその他の仏像となるわけか。
なるほど。現地で実物を見たことがないので、どうもスケールがわからなくて、昔、教科書や授業で「中尊寺の金色堂」と習った時には、もっと大きいものとして勝手にインプットされていたのだけれども案外小さいのですね。その割りには須弥壇の上、密集。可愛いサイズの諸仏、てんこ盛り。
最終章'祈りとまつり'は観光地にある民族資料館風。明るく、中央に置かれたソファーにはオバちゃんたちがしばし休憩、壁面の立ち見の映像は家電店の店頭でTVを立ち見する人だかりのよう。全体を通して照明や展示の演出が余りされていないのかな~という感じ(いや、私が感じなかっただけだと思うのだけど)だったけれど、色々な展示品を集めて「浄土の世界」を表すのは難しいのだろうなぁという印象。1つ1つのものは大変貴重なもので浄土信仰の断片なのだろうけれども、それを繫ぎ合わせて浄土の世界として'絵'で思い浮かべるのは、CG復元や平泉諸寺参詣曼荼羅図を見て頭では「そうなんだ」と思ってもなかなか難しいものなのね。もしかしたら毛越寺の庭園に佇めば一目で'世界'感じることができるのかな。
あ、そうそう。
最近は音声ガイドもタレントの○○さん吹き込みの音声ガイドとか普通なのね。利用する方も結構多くて。私、まだ1度も利用したことないのだけれど、耳で説明を聴いて目で見る・・・これはTVを見るのと同じなんじゃないだろうか、自分の頭で「あぁなんだ、こぅなんだ、ここは?あそこは?」と考えずに単に聞いたことを見る、みたいになっちゃわないんだろうか。耳と目はもう塞がっているから他の気がまわらないのか、周囲の状況も構わずテコでも動かず突っ立ったままの人を良く見掛けるんですよね。でも今度1度使ってみようかな。
さて、'浄土の世界'が人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」と認められて世界遺産の登録なるかどうか。観光資源のことを考えなければ、国特別史跡や特別名勝、国宝や重要文化財であるだけの方が、充分でより良い場合もあるってことはないんだろうか。個人的には、そこがワールドワイドの価値があるかないかは関係なく、興味があって惹かれれば足を運ぶのだけれど。
しっかし、このところ暑いですよね、初夏(笑)?
私の体は、これぐらいの気候が「寒くない」と感知していい感じなのだけれど、桜が散りかけの季節としてはどうなんでしょ。でも、思わず外を歩きたくなるランランルンルン季節で嬉しーッ。
by sohla
| 2009-04-12 08:45
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