2008年 09月 21日
【2008Bali】⑬ あ、内なる女性性か・・・
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『カラーパープル』でピューリッツァー賞を受賞したアフリカ系アメリカ人作家のアリス・ウォーカーが、だいぶ前のインタビューの中でこんな事を言っているのを読みました。
--- 「息子を育てている母たちへのアドバイスを」
「暴力は物事を解決せずに悪化させるだけだと、問題を本当に解決するのは暴力を使わない方法だと、息子たちに話して。そして自分の内なる女性性を敬いなさいと、教えてください」
これを読んだ時、ふとバリの男性たちを思い浮かべたんです。唐突なんですけれど。私は今まで彼らの見かけや立ち振る舞いではなくて、考え方であるとか気遣いを'柔かさ'とか''しなやかさ'とか'優しさ'と言っていたんですけれど、確かにそうなのだけれどでも何となくそれだけではピタリと来ない感じがしていて、どんな形容をすればいいのだろう・・・とずっと思っていたんです。でも、この「男性の内にある女性性」・・・この言葉を見た時に「あぁ、これなのか」と。
私はフェミニスト的な考えは持っていないと言うか、そういう括り方に余り興味がないので、男/女はこうあるべきとか、男/女らしいとか、そういうことではなくて、もっと原始的(笑)で単純な部分のことなんですよ。それに、私が個人的に感じるごくごく主観的なものですし。
男性の内なる女性性っていうのは、女性が持つ女性性とは違うもので、それは本来は女親から受け継ぐものではなくて男親から受け継ぐものなのかな、と私は勝手に感じているんです。なので、息子と過ごす時間や教育や面倒を全面的に女性に委ねてしまったら、(健全な、笑)女性性は受け継がないのではないのかな、って思ったり(除く、母子家庭)。
以前、私のバリへの入り口はコレだったと書いたことがあるんですが、その「地球風俗曼蛇羅」のバリ島のパートに、こんな風に書いてあるんです。
"私を揺さぶり、感動させた強い印象、バリで見た一つの牧歌的な風景。
稲刈りの季節、田んぼで女が一生懸命に稲刈りをしている。
せっせと働く女の姿を見ながら、子供を抱いた男があぜ道に立っている。
男は子守唄を歌って子供をあやし、太陽の沈む姿に明日の天気を想い、
月の出るのを静かに待ちながら家族の将来を考えている。
私はその風景に、1つの絵-文化的地平につながる未来の絵を見たような気がした。
あぜ道に立つ男が、抱いた子供に何かを伝えている。
その男の心の中に、私は詩を感じ、音楽を聴き、絵を見た。
そしてもしかしたら、男があぜ道に立って、女が田畑の中にいることが、
人間にとって自然と共存してゆくための、バランスのとれた姿ではなかったのだろう
かと思うようになった・・・"
「男の存在証明---あぜ道からの文化論」 浜野安宏著 PHP研究所刊
私は、女は現実的で、自分の権力や欲望のために戦ったり争ったりするような(女にとって)馬鹿馬鹿しいことはしないから、男が子供の世話をして女が外で働く方が世の中は平和で上手くまわって行くのではないかと、この文を読んで思ったんですけれど、あぜ道に立つ男が抱いた子供に伝えるのは単に絵や詩や音楽などの文化的なものだけではなくて、「女性性」なのではないかなと今は思うんです。もしくは、文化的なもの=女性性なのかも知れないですけれど。
勿論、バリにだって男の仕事、女の仕事と役割があるんですよね。でも、それ以前の精神的なところ、根っこでは不自然な役割意識が無いというか、そういったものに囚われていない(余り考えない、笑)自由さが、あの「女性性」を感じさせる理由なのかな、と思ったりします。まぁ、元々の社会構造とかバリの女性が逞しいとか根本的な理由もあるのかもしれないですけれどね。
やっぱり、週末パパじゃなくて自分の息子と日がな一緒にいられる、どこに行くにも一緒みたいな時間の余裕がないとなかなか難しいんでしょうね、こういう形のないものを育むのは。そんな形がないものよりも、自分が果たせなかった夢とか出来なかったことを息子に重ね合わせる方が、自分の中の女性性なんてものと向き合わないでも済みそうですし。まぁ、私が日本における息子と男親の関係を言っても、バリの何に居心地の良さを感じるかなんて分析しても仕方ないですね(笑)。はい。
--- 「息子を育てている母たちへのアドバイスを」
「暴力は物事を解決せずに悪化させるだけだと、問題を本当に解決するのは暴力を使わない方法だと、息子たちに話して。そして自分の内なる女性性を敬いなさいと、教えてください」
これを読んだ時、ふとバリの男性たちを思い浮かべたんです。唐突なんですけれど。私は今まで彼らの見かけや立ち振る舞いではなくて、考え方であるとか気遣いを'柔かさ'とか''しなやかさ'とか'優しさ'と言っていたんですけれど、確かにそうなのだけれどでも何となくそれだけではピタリと来ない感じがしていて、どんな形容をすればいいのだろう・・・とずっと思っていたんです。でも、この「男性の内にある女性性」・・・この言葉を見た時に「あぁ、これなのか」と。
私はフェミニスト的な考えは持っていないと言うか、そういう括り方に余り興味がないので、男/女はこうあるべきとか、男/女らしいとか、そういうことではなくて、もっと原始的(笑)で単純な部分のことなんですよ。それに、私が個人的に感じるごくごく主観的なものですし。
男性の内なる女性性っていうのは、女性が持つ女性性とは違うもので、それは本来は女親から受け継ぐものではなくて男親から受け継ぐものなのかな、と私は勝手に感じているんです。なので、息子と過ごす時間や教育や面倒を全面的に女性に委ねてしまったら、(健全な、笑)女性性は受け継がないのではないのかな、って思ったり(除く、母子家庭)。
以前、私のバリへの入り口はコレだったと書いたことがあるんですが、その「地球風俗曼蛇羅」のバリ島のパートに、こんな風に書いてあるんです。
"私を揺さぶり、感動させた強い印象、バリで見た一つの牧歌的な風景。
稲刈りの季節、田んぼで女が一生懸命に稲刈りをしている。
せっせと働く女の姿を見ながら、子供を抱いた男があぜ道に立っている。
男は子守唄を歌って子供をあやし、太陽の沈む姿に明日の天気を想い、
月の出るのを静かに待ちながら家族の将来を考えている。
私はその風景に、1つの絵-文化的地平につながる未来の絵を見たような気がした。
あぜ道に立つ男が、抱いた子供に何かを伝えている。
その男の心の中に、私は詩を感じ、音楽を聴き、絵を見た。
そしてもしかしたら、男があぜ道に立って、女が田畑の中にいることが、
人間にとって自然と共存してゆくための、バランスのとれた姿ではなかったのだろう
かと思うようになった・・・"
「男の存在証明---あぜ道からの文化論」 浜野安宏著 PHP研究所刊
私は、女は現実的で、自分の権力や欲望のために戦ったり争ったりするような(女にとって)馬鹿馬鹿しいことはしないから、男が子供の世話をして女が外で働く方が世の中は平和で上手くまわって行くのではないかと、この文を読んで思ったんですけれど、あぜ道に立つ男が抱いた子供に伝えるのは単に絵や詩や音楽などの文化的なものだけではなくて、「女性性」なのではないかなと今は思うんです。もしくは、文化的なもの=女性性なのかも知れないですけれど。
勿論、バリにだって男の仕事、女の仕事と役割があるんですよね。でも、それ以前の精神的なところ、根っこでは不自然な役割意識が無いというか、そういったものに囚われていない(余り考えない、笑)自由さが、あの「女性性」を感じさせる理由なのかな、と思ったりします。まぁ、元々の社会構造とかバリの女性が逞しいとか根本的な理由もあるのかもしれないですけれどね。
やっぱり、週末パパじゃなくて自分の息子と日がな一緒にいられる、どこに行くにも一緒みたいな時間の余裕がないとなかなか難しいんでしょうね、こういう形のないものを育むのは。そんな形がないものよりも、自分が果たせなかった夢とか出来なかったことを息子に重ね合わせる方が、自分の中の女性性なんてものと向き合わないでも済みそうですし。まぁ、私が日本における息子と男親の関係を言っても、バリの何に居心地の良さを感じるかなんて分析しても仕方ないですね(笑)。はい。
by sohla
| 2008-09-21 17:35
| それもバリ、これもバリ
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