2006年 08月 18日
インドネシア独立と日本人
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お盆休み最後の8月16日に神谷町の青松寺へ行ってきました。このお寺には、61年前に日本が敗戦・撤退後もインドネシアに留まり独立軍に参加して戦死した2名、市来龍夫、吉住留五郎の両氏の名前の刻まれたスカルノインドネシア大統領の直筆の顕彰碑があります。そんな碑が都内にあると知って行ってみたくなりました。
場所は地下鉄神谷町駅から歩いて7、8分の距離でしょうか。ちょうど慈恵会医大の向かいが、この青松寺などを含んだ「愛宕グリーンヒルズ」と言われるそうで、オフィス棟のMORIタワーと住居棟の愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの谷間にお寺はあります。
新しくて整然とした境内を歩いても、どこにその碑があるのかわからず、制服を着た植木を整備している方に聞いても当然わからず。すると本堂脇の建物に連絡用の電話があったので、思い切って聞いてみました。え~、「何でそんなものわざわざ見に来たの?」と言いたげ、でも無表情の男性が場所を教えて下さいました(笑)。
フォレストタワーへ向かう通路でしょうか、その傍らにひっそりとありました。
市来龍夫君と 吉住留五郎君へ
独立は一民族 のものならず
全人類のものなり
1958年8月15日
東京にて スカルノ
PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA
Kepada sdr. M(I)chiki Tatsuo
dan sdr. Yoshig(z)umi Tomegoro.
Kemerdekaan bukanlah milik
sesuatu bangsa saja, tetapi
milik semua manusia.
1945年8月17日独立宣言後、英軍の占領、オランダ軍の占領、国連介入、ハーグ円卓会議など独立戦争を経て、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国から、1950年8月15日インドネシア共和国の樹立が宣言。
市来龍雄はアブドルラフマン市来、吉住留五郎はアレフ吉住と言う名で独立軍を支援。市来は1936年からジャカルタの日蘭商業新聞に勤務した後、陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わり、インドネシア独立のわずか10ヶ月前1949年1月9日42歳で戦死。吉住は日蘭商業新聞で市来と知り合い、1944年から海軍武官府で民族主義運動工作に従事、1948年8月10日38歳で病死、インドネシア独立宣言に関わった四人の日本人の中の一人でもあります。2人は共に戦後も独立闘争に参加したけれど、インドネシアの完全独立を見ることなく亡くなりました。両氏は、インドネシアの国営英雄墓地に埋葬されているそうです。
二人の人となりなどは下記のリンク先が参考になると思います。独立軍に日本兵がいると分かるとオランダ軍はその“首”に破格の懸賞金をかけ、懸賞金ほしさに通報する村人もいたそうです。降伏した日本軍は当初、インドネシア独立を認めない連合国軍の指揮の下、治安部隊として矢面に立たされ、日本の占領で苦い思いをした人もいて対日感情は決していいばかりではなかったとのこと。独立軍として戦うことにした日本人の方々の経緯、思い、体験は様々だったと思います。戦争というものから遠く離れて生きて来た私などには、到底推し量ることは出来ないことだとは思うのですが、ただただ単純にこういった方々もいた、確かにこういう時代があったと言う事を忘れないでいたいと思うのです。
市来龍夫 インドネシアの独立に尽くした日本人 - 日本会議熊本
インドネシア独立戦争と市来龍夫
市来龍夫 - インドネシア専科
吉住留五郎 - インドネシア専科
インドネシアの独立に命捧げる 吉住留五郎 - 荘内日報社
場所は地下鉄神谷町駅から歩いて7、8分の距離でしょうか。ちょうど慈恵会医大の向かいが、この青松寺などを含んだ「愛宕グリーンヒルズ」と言われるそうで、オフィス棟のMORIタワーと住居棟の愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの谷間にお寺はあります。
新しくて整然とした境内を歩いても、どこにその碑があるのかわからず、制服を着た植木を整備している方に聞いても当然わからず。すると本堂脇の建物に連絡用の電話があったので、思い切って聞いてみました。え~、「何でそんなものわざわざ見に来たの?」と言いたげ、でも無表情の男性が場所を教えて下さいました(笑)。
市来龍夫君と 吉住留五郎君へ
独立は一民族 のものならず
全人類のものなり
1958年8月15日
東京にて スカルノ
PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA
Kepada sdr. M(I)chiki Tatsuo
dan sdr. Yoshig(z)umi Tomegoro.
Kemerdekaan bukanlah milik
sesuatu bangsa saja, tetapi
milik semua manusia.
1945年8月17日独立宣言後、英軍の占領、オランダ軍の占領、国連介入、ハーグ円卓会議など独立戦争を経て、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国から、1950年8月15日インドネシア共和国の樹立が宣言。
市来龍雄はアブドルラフマン市来、吉住留五郎はアレフ吉住と言う名で独立軍を支援。市来は1936年からジャカルタの日蘭商業新聞に勤務した後、陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わり、インドネシア独立のわずか10ヶ月前1949年1月9日42歳で戦死。吉住は日蘭商業新聞で市来と知り合い、1944年から海軍武官府で民族主義運動工作に従事、1948年8月10日38歳で病死、インドネシア独立宣言に関わった四人の日本人の中の一人でもあります。2人は共に戦後も独立闘争に参加したけれど、インドネシアの完全独立を見ることなく亡くなりました。両氏は、インドネシアの国営英雄墓地に埋葬されているそうです。
二人の人となりなどは下記のリンク先が参考になると思います。独立軍に日本兵がいると分かるとオランダ軍はその“首”に破格の懸賞金をかけ、懸賞金ほしさに通報する村人もいたそうです。降伏した日本軍は当初、インドネシア独立を認めない連合国軍の指揮の下、治安部隊として矢面に立たされ、日本の占領で苦い思いをした人もいて対日感情は決していいばかりではなかったとのこと。独立軍として戦うことにした日本人の方々の経緯、思い、体験は様々だったと思います。戦争というものから遠く離れて生きて来た私などには、到底推し量ることは出来ないことだとは思うのですが、ただただ単純にこういった方々もいた、確かにこういう時代があったと言う事を忘れないでいたいと思うのです。
市来龍夫 インドネシアの独立に尽くした日本人 - 日本会議熊本
インドネシア独立戦争と市来龍夫
市来龍夫 - インドネシア専科
吉住留五郎 - インドネシア専科
インドネシアの独立に命捧げる 吉住留五郎 - 荘内日報社
by sohla
| 2006-08-18 21:57
| それもバリ、これもバリ
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