2008年 08月 24日
【2008Bali】⑦ 「kasihan・・・」のその先
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1つ前のエントリでアメッドの子供達の買え買え攻撃や、それを追い払った私、ワヤンと子供達との様子などを書いたんですけれど、これはその続き。
ワヤン:「オレ、学校の先生になればよかったかなぁ」
私:「そうね、それも良かったかもね」
でも、そうは言っても親がやらせているのか子供が自主的にやっているのかわ判らないけれど、やっぱり観光客に「学校へ行きたいから買って」とか「教科書が買えないから買って」と押し売りするのはmalu(恥)なんじゃないかって思うんですよね。「お父さんお母さんの手伝いをして作った塩だから」とか「クサンバの塩より美味しいよ」とか言うならまだしも。彼らの境遇は可哀相だとは思うけれども、「生活が貧しいから買って」と手を差し出すのは、その手に塩が乗っているか乗っていないかの違いだけで物乞いと大差ないじゃないかと思うんです。
子供はある種ゲーム感覚でお小遣い稼ぎをしているのかも知れないし、本当に生活費を稼いでいるのかも知れない。たかだか数千、数万ルピアで何かを買ってあげることくらい簡単だけれども、やっぱり大人は・・・親もバリ人も観光客も、仕方ないとか、いいよいいよと子供が「観光客相手」に「貧しさを口実」に物を売るのを当然のように仕方ないとするのは良くないんじゃないかと思うのは変わりないんですよ、私的に。綺麗ごとかもしれないけですけれど。観光客にとってだって愉快なことじゃないですし。
バリ人にとっては余りにも普通のこと、どこでもあり得ることで、何も感じなくなってしまった?「学校に行けないから」「教科書が買えないから」買って、なんて子供に言わせてはいけない、って感じる大人はいない?そりゃ恥ずかしいことだけど仕方ないからそうさせておく?
あの子達を学校に行かせることに全力を尽さなければならないのは、第一に親を含めたバリの社会であって、観光客や外国人慈善家ではないですから。現実問題それがとてつもなく難しいことで、何か劇的に生活環境が変らない限り、福祉が多少でも向上しない限り、長い目で見て何も変らず、変らないのは悪循環だけだと諦めに近い気持ちだろうことは想像がつきますけれど、今あの子達がやっていることがそのまま彼らの将来になってしまうのは社会や大人の責任だと思うんですよね。月並みだけれど、あの子供達の今はバリの将来でもあるのにね。
貧しいと言っても、バリ島で見れば日本人だけでも何万という観光客が毎月訪れていて、
空港では到着ビザだけでも1人につき$10または$25の収入がある(これは全部ジャカルタが持っていってしまうと言う話ですが)、ホテルでも安宿でもとにかくどこかに泊まる、食事も必ずする、多少でもお土産も買う、スーパーやコンビニ、ファストフード店も格段に増えた、現地ツアー会社だって山ほどあってお客さんをあちこちに案内している・・・とにかく多くの人や企業が観光に携わって収入を得ていて、州政府は企業から多かれ少なかれ税収だってあるだろうに、一向に現地の人達の生活が向上しないとは何でなんでしょう。バイパスを整備するのも、公園を見栄え良く綺麗にするのも、道路のブロックにペンキを塗るのも結構、でもトゥランベンやアメッドの辺りの様に毎年乾期になると水不足で子供達か何キロも歩いて水を汲みに行く、学校に行けない子供達がゴマンといる、観光業に従事せず自分の田畑も持たず小作人として朝から晩まで働いて僅かなお金や現物を得る人だって山ほどいる、これはもうずっと続いている状況なのに、何故観光にお金をつぎ込むのと同じくらいお金を使ってどうにかしなきゃいけないと思わないんだろうかといつも思うんです。
身近な範囲ではあれほどお互い助け合って暮らしていると言うのに、視野をバリ全体に広げて見ると、貧しい地域や人達は「可哀相」とか「仕方ない」とか「わたしもそうだった」とか、「それは上の人が考えることだから」って。上がちゃんとやるなんて誰もこれっぽっちも思ってもいないのにね。ニュースや新聞で見て話しの種にはしても最終的には他人任せにしてお終い。
最近感じることがあるんですけれど、自分で事業をしていて多少の収入があるバリ人でも「私は貧乏」とか「お金がない」って言うんですよね。それって、恐らく私も含めて海外から来る外国人観光客と自分を比べて言っているんでしょうけれど、私から見ればそれはこれだけ貨幣価値が違うのだから当然のことで比べること自体がおかしい。バリ人として継続して行く商売を持っていて、自分で現金収入を得る術も持っているのに、どうもいつまでたっても「私は貧乏」を免罪符にして、(自分の村ではなくて)社会に対する何か責任や義務を免除してもらっている様に感じることが時々あって。ちょっと意地悪な見方ですけれど。そうは言っても利益がないからとか、借金もあるしとか言う人もいるけれど、それでも少なくとも雇われではなく、人を雇えるのだからバリ人レベルの貧乏ではないのに。
外国人に対しては「貧乏」でも、村にそこそこ寄付をしたり尽しているんでしょうからローカルに対しては「お金持ち」。向く方向によって姿勢が違うのは、ちょっとダブルスタンダードって気がするんですけれど、本来自分が生まれ生きていく場所である非常に小さな単位の社会と、日々観光客を通して触れる普通にしていれば手に届くことのない広い広い世界との接点で生活を営んでいると、ダブルスタンダードは息をするのと同じくらいに自然で当然なこと、ある種の処世術なのかもしれないですけれども。
別に稼いでいるんだから寄付したら?とか慈善活動したら?とか言うんではないんです。それはそれである面では大切で素晴しいことだけれども、一時凌ぎや自己満足では意味ないですから。行き着くところは財政とか税制とか政治、そしてちょっとお金をもっている人達の意識に尽きるんでしょうけれど、役人が私利私欲を捨てて広く長い目で全てのバリ人の為に・・・なんて高尚な(普通の)意識があるかと言えばそれは甚だ疑問だし、普通の人も同じバリ人としてkasihan(可哀相)だとは思うけれど、その先へは思考が進まない。そして大人も子供もcari uang。
もぅ、どうしたもんだか。
何年か前に、当時ジュンブラナ県の知事になった方が(この方は広島に留学して医師の勉強をしたことがあるとのこと)、授業が終わった教室を生徒に開放して、希望者にコンピューターや語学などを無料で教える、医療を充実させる、ということを政策の柱にしようとしている(確か行政の柱としたいものがいくつかあった)。ついては日本語教師を探していますよ、とインドネシアに住んでインドネシア人が日本へ研修に行く前の語学研修に長く携わって来た人から情報を貰ったことがあって、その時「あぁ、先のことを見据えて長期計画で子供達のことを考える大人が行政にいるんだな」と、ちょっと感心したというかホッとしたことがあるんです。今は例に寄って頓挫しているかもですが。
また、昔、語学学校と幼稚園・小学校を経営している校長先生の家に数ヶ月ホームステイした時、その家にはシンガラジャ出身の女の子のお手伝いさんが3人いて、一番若い娘は11歳。当然、学校になんて行ってません。校長先生は自ら自分の学校の売店で生徒に売るお菓子を作って売っては小銭を稼ぎ、学校の見場を良くする為に滝が流れ魚が泳ぐ池を作り、毎週教会へ行っては「先生からのプレゼントがありますよ」と牧師さんの紹介で○○君の○○ちゃんのお誕生日とプレゼントを配り、そりゃぁ名士の様な振る舞いのご夫婦でしたけど(事実周りの人の認識はそうなんでしょうね)、私はこの人達は自分達の年端もいかないお手伝いさんの将来を思い描くことはあるんだろうか、彼女達の姿を通して学校へ通えないバリの子供達の事に思いが及ぶこともあるんだろうか、その先がバリの将来に繋がっていると思わないんだろうか、せいぜい自分の身近な周りしか見えていないんじゃないんだろうかといつも思いながら見てたんです。勿論、お手伝いさんを学校に通わせなければならない義務もないですし、インドネシアでは有職者ならお手伝いさんを雇ってそれこそ身の周りのこと、家の細々したことを任せるのはごくごく普通のことですから、お手伝いさんを単にお手伝いさんとして扱うだけを責めることは出来ないし、僅かな賃金でも雇っているだけ良いと言ええるのかもしれないですけれども。
さすがにこの方達は「私達はお金がない」とは言いませんでしたけれど、子供を道具のように使っているのは大人なんだよな、と何だか考えちゃう最初の体験なんです。
さて、こんなことを考えていても堂々巡り。そして大人が考えてバリの社会が解決しなければいけない問題。私がどう感じても仕方ないことなんですけれど、毎度毎度う~んと考えてしまう光景なんですよね。
話は変って、これがアメッドの塩売りから買った塩。もぅ、私が見たところ1籠7、8kgはあったと思うんですよ。まぁ、あちこちに分ければいいだけのことなんですけど、それにしたって・・・ねぇ。私がお土産として持ち帰れる量はたかが知れてますし。
あの~、それにしても小さなゴミやら楊枝の様な木屑まで何だか混ざってるんですけど・・・。これ、バリの人にとってはどうってことないかもしれないけど、私としては避けて使う方が大変なんじゃない?って思うけどなぁ。恐らく、(虫などは入っていなかったんですけれど)ああやって天日干ししてるので当然塵も入るでしょうし、入れ物になっているヤシの木屑だって混ざるでしょうしね。で、観光土産よりそういう混ざりものを除去したり精製する工程を省いた塩なんでしょうね。言い換えれば質が余り良くないんだと思うんですけれど。
後で聞いた話によると、アメッドの塩は魚を日干しにする時に使ったり、牛や豚が餌をよく食べるように餌に混ぜて使ったりする用の塩らしいです(笑)。なるほどね、それじゃぁ綺麗に精製する必要もないってことね。ま、塩は塩ということで。私、宿で自分の持ち帰る分だけでもゴミを取ろうと結構な時間を割きましたよ(笑)。面倒臭くなってゴミ混じりの塩を洗面所で水に流したりもしちゃったんですけれど、ビックリするほど大きな木屑が入っていたりして、配管が詰まり気味なって焦っちゃいました。配管が詰まるほどのゴミが塩に混ざってるってどういうこと?ですよねぇ。
味はと言うと、これがツーンとしたしょっぱさがなくてまろやかって言うんでしょうか。ちょっと舐めた時に「ん?余りしょっぱくない塩?」と思ったんです。実際はちゃんとしょっぱいんですけれど、後で口に残らないんですよね。「料理を作る時に何かに混ぜて使ってしまうより、出来上がった料理にパラパラと振りかけると美味しー」と、お裾分けした友人が言ってました。彼女は塩気のちょっと足りなかったパスタ料理にパラパラと掛けてみたそうなんですけれど、これが歯ざわりもあって美味しかったって。
でも、塩を買うならやっぱりあの当たりではクサンバがいいそうですよ。
by sohla
| 2008-08-24 16:20
| それもバリ、これもバリ
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