2011年 11月 06日
一般公開@芝・増上寺:その二『徳川将軍家霊廟』
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まずは拝観料に含まれている徳川将軍家霊廟土産(といっては何なんですけれど)のパンフレットと絵葉書がこちら。
三解脱門拝観の列に並んでいた時、前に並んでいたご夫婦は先に霊廟を見ていらっしゃったようで、絵葉書が入った封筒を除く奥様に、旦那様が「お坊さんの写真でも入ってた?」と冗談混じりに話していたのを耳にしていたんですけれど、焼失して今は無き絢爛豪華な霊廟の白黒写真10枚と、その10枚の写真が以前はどこに配置されていたかわかるように記載された焼失する前の増上寺の古地図、それプラス、このところの「江」人気で急遽追加されたんでしょうかね、二代秀忠公とその正室江与(崇源院)の現在の宝塔がカラーで1枚が1セットになったもの。
えー、霊廟や宝塔の写真の絵葉書って・・・と思ったんですけれど、葉書として使う目的ではなくて資料として見れば貴重な写真。
特に、広大な増上寺の古地図を眺めていると、現在の境内や本堂も確かに大きいけれど、本来その周りにあった霊廟群の規模の大きさと言ったらその比ではなかったのだとよ~くわかって驚きです。
写真から東照宮のような絢爛豪華な霊廟だったことがうかがえて、それらの殆どを失ってしまったのは本当に本当に残念。さらに殆どを焼失したとは言え、それでも残った僅かなものと、その一帯の土地をそのまま残すことは出来なかったんだろうか、とも。どんなにビルの谷間に挟まれようと、多少の移築はあろうと、あるべきところにあって欲しかったなぁって。
東京のド真ん中に広大な徳川家霊廟を残しておくのは効率が悪いに違いないですけれどもね、こちらやこちらには、この霊廟のことが詳しく書かれているので大変参考になるんですけれど、プリンスホテルってこういう土地の上に建っているのね、大丈夫なのか?と今さらながら思ったり。
頂いた「増上寺御霊屋」というパンフレットの最後に、小さく"大徳院殿霊廟ではこの惣門のほかに勅額門、御成門(天人門)、丁子門、灯籠が繊細の焼失を免れ、現在は狭山湖畔ユネスコ村、狭山山不動寺に移築保存されている"と書かれてます。んー、買い手の本拠地だからなんでしょうけれど、「そこじゃダメなの、意味ないのよ」と思ってしまうのですけれもねー。wikipediaのプリンスホテルのページを見ると、"社名は、敗戦に伴い行われた皇籍離脱後、占領軍によって没収された旧皇族の土地がサンフランシスコ条約締結によって日本政府に返還された後、安価で購入し、その土地にホテルを開業した事に由来している"とのこと。
増上寺HPにもある通り、昭和33年(1958年)、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬、ホテルを建てるには更地にしなきゃいけないということで、その後敷地内にあった僅かな遺構は西武が狭山湖のほとりにたてたテーマパークユネスコ村(平成18年閉園)狭山山不動寺に移築。まー、霊廟の遺構だけでなく、あちこちでそういった土地を買ってホテルを建てるにあたっては使えないものを集めとく受け皿みたいなつもりだったんでしょうかね。ついでに入場料も取れるし足代のお金も入るし何度もオイシイみたいな感覚で。大量の石灯籠も随分とぞんざいな扱いを受けたようで、狭山の地に運ばれそのまま野積みにされ西武球場が建設される時に周辺の寺院に流出したそう。
いやー、なんとも罰当たりな。
開発業者でも土地とのこういう向き合い方はいただけないというか、良いことなさそう。まぁ開発商売の前には"代々"とか"歴史"とか、それらの積み重ねなど無用の長物って感じなんですかね。というか、余りにも自分がそういうことと縁遠い出で理解すら出来なかったのか、それとも成り上がる過程の深層心理に対抗意識や憧れみたいな複雑なものがあって、その裏返しなのか何なのかわかりませんが。当時は(今でも)そういう人や企業も多かったのかもしれないけれど、私はやっぱりそういうのは歴史に対して不遜で、その延長上にある今や未来に対しても無作法なことだと思うけれど。
もちろん商売人・開発業者も色々なので、たまたまこういう人に買い取られてしまったのと、東京タワーの建設やオリンピックをひかえてとにかく開発!復興!優先ってな時代が重なってしまった悲劇かなぁとは思うけれど、それにしてもバラバラにして失ってしまったものは大きいなと。増上寺は浄土宗、移築先の狭山不動寺は天台宗、せめて宗派ぐらい同じにしてあげられなかったんかい?と思いますけどね、何でも堤義明氏はもう一つの菩提寺ライバル寛永寺と親しかったので天台宗別格本山として建立したとか。
話しが逸れるけれど、群馬の鬼押し出しには小さい頃に行ったような気がするけれど、プリンス経営の鬼押し出し園には、寛永寺が徳川家の墓域を縮小して一般向けの墓地にした際に行き場を失った灯籠が40基ほど移設されたそう。いやー、ここがダメならあっち、何か不都合でも?ってな軽さ、恐るべし。
もしかしたら、寛永寺由来や増上寺由来の徳川家石灯籠を、そうとは知らずどこかで目にしていた可能性もあるかも。
さて、こちらが霊廟入り口の旧国宝だった鋳抜門。絵葉書にあるように、かつて霊廟は御霊を祀るために墓所や本殿や拝殿を中心とした厳粛で壮麗な施設だったということで、この鋳抜門も元々は文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものとのこと。
入るのは鋳抜門ではなくて、その横の小さな入り口から。墓所は小さな広場のようになっていて、8つの宝塔がぐるりと配置され、中央には焼失前の霊廟の写真が展示ケース内に紹介されています(写真は宝塔の前の灯籠しか写ってませんが・・・)。
大河ドラマの影響であちこちで「江」にまつわる場所やイベントが盛んなようだけれど、この墓所では今なら右奥の二代秀忠公夫妻の宝塔が目玉というとこでしょうかね。
私的には大河ドラマも見ていないし、江与にも特に興味はないので、そういう意味での感慨は全くないんですけれど、かつては広大な霊廟群に厳粛で壮麗に祀られていたものが、こうやって小さな場所にギュッと集められて肩を寄せるように並んでいるのを見ると、この空間全体が合祀施設のような感じがして、拍子抜けするほど厳粛でも壮麗でもなく、何だか悲しくて寂しい感じがしてしまったなぁ。
東京プリンスホテル側に並ぶ子育て招福地蔵。子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されているそうで1300体あるそう。現代では風車なんてこういう場面でしか使われないのかもしれないですね。
本堂右隣、墓所の手前にある新しくてヒッ゚カピカの安国殿ではお守りやお札、お土産のお菓子や手ぬぐいなどが販売されていて、参拝者が物色している奥ではちらかのお宅の法要が営まれているという、何とも雑多で不思議な感じ。そう言えば、お地蔵さん用の毛糸で編んだ帽子なども一式販売されてました。
増上寺は都庁前から大江戸線で大門まで1本で行けて、私の場所からは行き易く遠くもないのに、これだけを見て行って帰ってくるのに3時間ぐらい掛かっちゃいました。
西新宿に戻って、家へ帰ってもロクに食べるものがないと思って近所でお昼ご飯。そこから家まで歩いて5分程度なのに、まるで1日歩きまわっていたかのように疲れてしんどくて、「こんなに疲れるって年のせいだなー、足腰も弱くなったんだなー」と思っていたら、どうやら風邪を引いて熱があった模様。やっぱり、短パン・半袖Tシャツ+ヒーターという奇妙な格好で過ごしているのが悪かったのかも。何となくこのところ頭痛がすることがあるなーとは思ってはいたんですけれども。
うー、風邪なんて1年以上振りかしらん。パブロン飲んでベットに潜り込んで寝ちゃおうかな。なんて、時間があれば具合が悪くなくても惰眠を貪っているんですけれどもね、正当な理由があるとまた嬉し(笑)。
三解脱門拝観の列に並んでいた時、前に並んでいたご夫婦は先に霊廟を見ていらっしゃったようで、絵葉書が入った封筒を除く奥様に、旦那様が「お坊さんの写真でも入ってた?」と冗談混じりに話していたのを耳にしていたんですけれど、焼失して今は無き絢爛豪華な霊廟の白黒写真10枚と、その10枚の写真が以前はどこに配置されていたかわかるように記載された焼失する前の増上寺の古地図、それプラス、このところの「江」人気で急遽追加されたんでしょうかね、二代秀忠公とその正室江与(崇源院)の現在の宝塔がカラーで1枚が1セットになったもの。
えー、霊廟や宝塔の写真の絵葉書って・・・と思ったんですけれど、葉書として使う目的ではなくて資料として見れば貴重な写真。
特に、広大な増上寺の古地図を眺めていると、現在の境内や本堂も確かに大きいけれど、本来その周りにあった霊廟群の規模の大きさと言ったらその比ではなかったのだとよ~くわかって驚きです。
写真から東照宮のような絢爛豪華な霊廟だったことがうかがえて、それらの殆どを失ってしまったのは本当に本当に残念。さらに殆どを焼失したとは言え、それでも残った僅かなものと、その一帯の土地をそのまま残すことは出来なかったんだろうか、とも。どんなにビルの谷間に挟まれようと、多少の移築はあろうと、あるべきところにあって欲しかったなぁって。
東京のド真ん中に広大な徳川家霊廟を残しておくのは効率が悪いに違いないですけれどもね、こちらやこちらには、この霊廟のことが詳しく書かれているので大変参考になるんですけれど、プリンスホテルってこういう土地の上に建っているのね、大丈夫なのか?と今さらながら思ったり。
頂いた「増上寺御霊屋」というパンフレットの最後に、小さく"大徳院殿霊廟ではこの惣門のほかに勅額門、御成門(天人門)、丁子門、灯籠が繊細の焼失を免れ、現在は狭山湖畔ユネスコ村、狭山山不動寺に移築保存されている"と書かれてます。んー、買い手の本拠地だからなんでしょうけれど、「そこじゃダメなの、意味ないのよ」と思ってしまうのですけれもねー。wikipediaのプリンスホテルのページを見ると、"社名は、敗戦に伴い行われた皇籍離脱後、占領軍によって没収された旧皇族の土地がサンフランシスコ条約締結によって日本政府に返還された後、安価で購入し、その土地にホテルを開業した事に由来している"とのこと。
増上寺HPにもある通り、昭和33年(1958年)、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬、ホテルを建てるには更地にしなきゃいけないということで、その後敷地内にあった僅かな遺構は西武が狭山湖のほとりにたてたテーマパークユネスコ村(平成18年閉園)狭山山不動寺に移築。まー、霊廟の遺構だけでなく、あちこちでそういった土地を買ってホテルを建てるにあたっては使えないものを集めとく受け皿みたいなつもりだったんでしょうかね。ついでに入場料も取れるし足代のお金も入るし何度もオイシイみたいな感覚で。大量の石灯籠も随分とぞんざいな扱いを受けたようで、狭山の地に運ばれそのまま野積みにされ西武球場が建設される時に周辺の寺院に流出したそう。
いやー、なんとも罰当たりな。
開発業者でも土地とのこういう向き合い方はいただけないというか、良いことなさそう。まぁ開発商売の前には"代々"とか"歴史"とか、それらの積み重ねなど無用の長物って感じなんですかね。というか、余りにも自分がそういうことと縁遠い出で理解すら出来なかったのか、それとも成り上がる過程の深層心理に対抗意識や憧れみたいな複雑なものがあって、その裏返しなのか何なのかわかりませんが。当時は(今でも)そういう人や企業も多かったのかもしれないけれど、私はやっぱりそういうのは歴史に対して不遜で、その延長上にある今や未来に対しても無作法なことだと思うけれど。
もちろん商売人・開発業者も色々なので、たまたまこういう人に買い取られてしまったのと、東京タワーの建設やオリンピックをひかえてとにかく開発!復興!優先ってな時代が重なってしまった悲劇かなぁとは思うけれど、それにしてもバラバラにして失ってしまったものは大きいなと。増上寺は浄土宗、移築先の狭山不動寺は天台宗、せめて宗派ぐらい同じにしてあげられなかったんかい?と思いますけどね、何でも堤義明氏はもう一つの菩提寺ライバル寛永寺と親しかったので天台宗別格本山として建立したとか。
話しが逸れるけれど、群馬の鬼押し出しには小さい頃に行ったような気がするけれど、プリンス経営の鬼押し出し園には、寛永寺が徳川家の墓域を縮小して一般向けの墓地にした際に行き場を失った灯籠が40基ほど移設されたそう。いやー、ここがダメならあっち、何か不都合でも?ってな軽さ、恐るべし。
もしかしたら、寛永寺由来や増上寺由来の徳川家石灯籠を、そうとは知らずどこかで目にしていた可能性もあるかも。
入るのは鋳抜門ではなくて、その横の小さな入り口から。墓所は小さな広場のようになっていて、8つの宝塔がぐるりと配置され、中央には焼失前の霊廟の写真が展示ケース内に紹介されています(写真は宝塔の前の灯籠しか写ってませんが・・・)。
私的には大河ドラマも見ていないし、江与にも特に興味はないので、そういう意味での感慨は全くないんですけれど、かつては広大な霊廟群に厳粛で壮麗に祀られていたものが、こうやって小さな場所にギュッと集められて肩を寄せるように並んでいるのを見ると、この空間全体が合祀施設のような感じがして、拍子抜けするほど厳粛でも壮麗でもなく、何だか悲しくて寂しい感じがしてしまったなぁ。
東京プリンスホテル側に並ぶ子育て招福地蔵。子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されているそうで1300体あるそう。現代では風車なんてこういう場面でしか使われないのかもしれないですね。
本堂右隣、墓所の手前にある新しくてヒッ゚カピカの安国殿ではお守りやお札、お土産のお菓子や手ぬぐいなどが販売されていて、参拝者が物色している奥ではちらかのお宅の法要が営まれているという、何とも雑多で不思議な感じ。そう言えば、お地蔵さん用の毛糸で編んだ帽子なども一式販売されてました。
増上寺は都庁前から大江戸線で大門まで1本で行けて、私の場所からは行き易く遠くもないのに、これだけを見て行って帰ってくるのに3時間ぐらい掛かっちゃいました。
西新宿に戻って、家へ帰ってもロクに食べるものがないと思って近所でお昼ご飯。そこから家まで歩いて5分程度なのに、まるで1日歩きまわっていたかのように疲れてしんどくて、「こんなに疲れるって年のせいだなー、足腰も弱くなったんだなー」と思っていたら、どうやら風邪を引いて熱があった模様。やっぱり、短パン・半袖Tシャツ+ヒーターという奇妙な格好で過ごしているのが悪かったのかも。何となくこのところ頭痛がすることがあるなーとは思ってはいたんですけれども。
うー、風邪なんて1年以上振りかしらん。パブロン飲んでベットに潜り込んで寝ちゃおうかな。なんて、時間があれば具合が悪くなくても惰眠を貪っているんですけれどもね、正当な理由があるとまた嬉し(笑)。
by sohla
| 2011-11-06 13:36
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