2011年 11月 06日
一般公開@芝・増上寺:その一『三解脱門』
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増上寺を訪れるのはコノ時と今回で2回目。カウントダウンの時は人がビッシリで立ってその時を待つだけで、正直お寺や境内は何も見ず(人が多過ぎて見えず、笑)、何となく「新しくて今どきのコンクリート寺院っぽいなー」とは思ったんですが、明治の大火や昭和の空襲で殆ど焼失、その後ふたたび整備・復興して1971年(昭和46年)に本堂、1989年(平成元年)に開山堂、2010年(平成22年に)安国殿と、やはりつい最近建立された建物が多いのですね。
その中で、この三解脱門は焼失をまぬがれた建造物ということで、
"増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています"とのこと。
階段を上る前に発券機でチケットを買い、それと引き換えにお土産の増上寺特製(笑)竹のしおりを頂くんですけれど、「(手摺につかまれるように)お土産はバッグに仕舞って両手を空けてお上り下さい!」と係りの方が言ってました。私は暑かったのでカーディガンを片手に持っていて、一瞬「大丈夫かな?」と思ったんですけれど、「私ぐらいの年齢ならまだまだ大丈夫だろー」と過信して(笑)一歩一歩上がって行きました。
が、建物を上る2つ目の階段は正に真上に上る梯子。「えー、梯子を上るなんて子供のとき以来だわー、それにしても垂直に近いんじゃない?」と思いながら、頭上もゴツンとするようなところがあるのでさらに一歩ずつ。うひー楽しー(笑)。そう言えば、最近の子供は梯子なんて上り下りする機会もないのかもなーとも。実際の建物に作りつけてある階段は蹴上げや踏面が45cmはあるんじゃないかというような、正に巨人用の階段みたいになってるんですけれど、昔の人やお坊さまは着物でどうやって上ったんだろう?やっぱり今みたいに梯子をかけて上がったんでしょうかねぇ。
2階に安置されているのは、中央に約1mちょっとの木像釈迦如来坐像、その両脇に約70cm高の両脇侍像・・・象の背に乗る普賢菩薩と獅子の背に乗る文殊菩薩の釈迦三尊像、そしてその両脇には90-100cmほどの極彩色の十六羅漢像がずらーっと、びっちり並んでます。
内部は撮影禁止なんですが、外から見て正面の大門・浜松町方面を望む扉が開け放れていて、お釈迦さまや羅漢さまたちが見ていた景色はこんな。あ、まるでマクロ設定で撮ってしまったかのようなピンボケですが・・・。
お釈迦さまや羅漢さまたちも外の景色がこんなに様変わりしていて、「何だ何だ?」と腰を抜かしたんじゃないでしょうかねー(笑)。
しかし、HPでお寺の歴史を見ると、江戸~明治のところには"当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれ、寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています"とあるので、それはそれは広大な寺院だったんですね。因みに現在は一万六千坪とのこと。
この、三解脱門は三毒煩悩から解脱するという意味で、「むさぼり(貪欲)」「いかり(瞋恚:しんに)」「おろかさ(愚癡:ぐち)」の三つの毒から離れて極楽浄土に入る心をつくるための門ということなんですって。そうそう、自分にも他人にも心穏やかに過ごすにはこれらは必須。あと妬みとか。まー、門をくぐっただけでは毒も抜けないでしょうけれど、「そうありたい」と思う気持ちや、その気付きが大切なのですよね、きっと。解毒のご利益があるかな、うしし。
こちらが三解脱門一般公開の記念品。
竹の栞には、『黒本尊開帳之圓 』と書かれた浮世絵でしょうかね、黒本尊が開帳された時に多くの人が参拝に訪れている様子が描かれてます。因みに、黒本尊(阿弥陀如来)は安国殿に祀られていて、御開帳・祈願会は正月・五月・九月の十五日とのこと。
週末だからでしょうね、この門の拝観で20-30分ぐらい並んだので、徳川将軍家霊廟拝観も並ぶのかなぁ、それだったらまたの機会でもいいかなぁ、霊廟だしなぁ、と思っていたんですけれど、行ってみるとそちらは並ぶこともなく入ることが出来たのでササッと拝観して来ました。
by sohla
| 2011-11-06 09:28
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