2017年 11月 22日
『日の名残り』The Remains of the Day
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渋谷Bunkamuraル・シネマでノーベル文学賞を受賞したイシグロ・カズオ氏原作「The Remains of the Day」(日の名残り)をやっているということで、イシグロ氏はどんな物語を書くのかな~と思って観に行ってきました。
この映画の舞台は貴族ダーリントン卿の屋敷。主が没落後、屋敷を買い取ったのが、今は亡きクリストファー・リーブが演じたアメリカ人元政治家で富豪。彼も参加する屋敷でのオークションの場面から始まるのだけれど、1993年の作品なので、落馬事故により首から下の機能を失ったのが、このわずか2年後だったのだなぁ…と、ちょっとしんみり。
英国の名門家に一生を捧げ、貴族の主人への忠誠心を優先し生きてきた老執事が、アメリカ人富豪の新しい主人を得て、自身の半生を回想し過去に想いを馳せる「日の名残り」。
映画は視覚が先に目に入るので、原作を読むのとちょっと違うとは思うのだけれど、ストイックな執事を演じるアンソニー・ホプキンスの演技、凄いですね。
職務に忠実で、愛や私情を断ち切り、心の扉を固く閉ざしてとりつくしまもないような、執事業一徹のプロフェッショナルな執事。抑えた表情の中にも時たま感情が見て取れるけれども、それはあくまでも執事としての感情。
でも彼の目、ちょっとした瞳の揺らぎや視線、輝きや曇り…が彼の心の中を映し出しているようで、目は口ほどにものを言う、これは映画ならでは。
美しい調度品で飾られた貴族の館、上流階級の住まいや暮らし、そこに集う要人たちの立ち振る舞い、執事という仕事、館で開かれた数々の外交会議、非公式な会談、イギリスロマン主義の絵画のような風景、名士に仕えた栄光の時代、ヨーロッパが世界の中心だった時代…執事スティーブンスのモノローグは、特別ドラマティックな展開があるわけではなく、淡々と、ただただ淡々と回想されていくのだけれど、そういった様々な場面が散りばめられ、それぞれが意味を持ち、じわじわと心に沁みてくる映画。
あらすじー侯爵に忠実な執事として徹底的にストイックに生きた一人の男の悲哀を描いた物語。1958年、ダーリントン邸の老執事スティーブンスのもとに、以前共に屋敷で働いていた女性ミス・ケントンから一通の手紙が届く。懐かしさに駆られる彼の胸に20年前の思い出が蘇る。当時、主人に対して常に忠実なスティーブンスと勝気なケントンは仕事上の対立を繰り返していた。二人には互いへの思慕の情が少しずつ芽生えていたが、仕事を最優先するスティーブンスがそれに気づくはずもなかった。そんな中、ケントンに結婚話が持ち上がる。互いに愛情を感じながらもその感情を抑えこんでしまう彼に、彼女は待ちきれず、彼の友人と結婚し町を去る。戦後、侯爵がこの世を去り、ようやく自由を感じた彼は女中頭を訪ねるのだが……。
気付くはずもなかった…そうなんだろうか。確かにスティーブンスは品格ある執事であるために、多くの感情を封印し徹底的にストイックだったとは思うけれど、私は、ミス・ケントンの想いに気づかなかったわけでも、屋敷で要人たちが話す事に何も思うところがなかったわけでもなかったと思うんですね。ただ執事として無関心でいることを良しと信じていただけで。
仕えるに値する(と自分が思う)の主人がいて、小さな世界(屋敷)が全世界で、(品格のある執事として)自分の労力を捧げたい、盲信して自己を抑制する…なんて状況になる可能性は国でも企業でも、時代を問わず有り得る(た)ことなんじゃないですかね。
スティーブンスは、主人ダーリントン卿を失ったこと、新しい主人がアメリカ人となったこと、ミス・ケントンを訪ねる旅で外の世界に触れ、市井の人たちと言葉を交わし、仕事優先とは言え自分が見ない感じない考えないふりをしてきた、それが最善だと思っていたそれまでの自分と向合わざるを得なくなったと思うのだけれど、恐らく過去の栄光の日々を弁護したい気持ちと、それを過去のものとして新しい主人の元ではそうではない自分でいたい気持ちだったんじゃないかな、と。
冒頭に書いたクリストファー・リーブ。いかにも英国的なダーリントン卿とそこに仕えた日々の終焉を象徴するには、スティーブンスからすると物言いも立ち振る舞いも"新世界"で、いかにもアメリカ的なリーブ演ずる政治家で富豪、そして新しい主人Mr.ルイスの存在は効いてたと思いますね。そうそう、若き日のヒュー・グラントも出てます。
英国の名門家に一生を捧げ、貴族の主人への忠誠心を優先し生きてきた老執事が、アメリカ人富豪の新しい主人を得て、自身の半生を回想し過去に想いを馳せる「日の名残り」。
映画は視覚が先に目に入るので、原作を読むのとちょっと違うとは思うのだけれど、ストイックな執事を演じるアンソニー・ホプキンスの演技、凄いですね。
職務に忠実で、愛や私情を断ち切り、心の扉を固く閉ざしてとりつくしまもないような、執事業一徹のプロフェッショナルな執事。抑えた表情の中にも時たま感情が見て取れるけれども、それはあくまでも執事としての感情。
でも彼の目、ちょっとした瞳の揺らぎや視線、輝きや曇り…が彼の心の中を映し出しているようで、目は口ほどにものを言う、これは映画ならでは。
美しい調度品で飾られた貴族の館、上流階級の住まいや暮らし、そこに集う要人たちの立ち振る舞い、執事という仕事、館で開かれた数々の外交会議、非公式な会談、イギリスロマン主義の絵画のような風景、名士に仕えた栄光の時代、ヨーロッパが世界の中心だった時代…執事スティーブンスのモノローグは、特別ドラマティックな展開があるわけではなく、淡々と、ただただ淡々と回想されていくのだけれど、そういった様々な場面が散りばめられ、それぞれが意味を持ち、じわじわと心に沁みてくる映画。
あらすじー侯爵に忠実な執事として徹底的にストイックに生きた一人の男の悲哀を描いた物語。1958年、ダーリントン邸の老執事スティーブンスのもとに、以前共に屋敷で働いていた女性ミス・ケントンから一通の手紙が届く。懐かしさに駆られる彼の胸に20年前の思い出が蘇る。当時、主人に対して常に忠実なスティーブンスと勝気なケントンは仕事上の対立を繰り返していた。二人には互いへの思慕の情が少しずつ芽生えていたが、仕事を最優先するスティーブンスがそれに気づくはずもなかった。そんな中、ケントンに結婚話が持ち上がる。互いに愛情を感じながらもその感情を抑えこんでしまう彼に、彼女は待ちきれず、彼の友人と結婚し町を去る。戦後、侯爵がこの世を去り、ようやく自由を感じた彼は女中頭を訪ねるのだが……。
仕えるに値する(と自分が思う)の主人がいて、小さな世界(屋敷)が全世界で、(品格のある執事として)自分の労力を捧げたい、盲信して自己を抑制する…なんて状況になる可能性は国でも企業でも、時代を問わず有り得る(た)ことなんじゃないですかね。
スティーブンスは、主人ダーリントン卿を失ったこと、新しい主人がアメリカ人となったこと、ミス・ケントンを訪ねる旅で外の世界に触れ、市井の人たちと言葉を交わし、仕事優先とは言え自分が見ない感じない考えないふりをしてきた、それが最善だと思っていたそれまでの自分と向合わざるを得なくなったと思うのだけれど、恐らく過去の栄光の日々を弁護したい気持ちと、それを過去のものとして新しい主人の元ではそうではない自分でいたい気持ちだったんじゃないかな、と。
冒頭に書いたクリストファー・リーブ。いかにも英国的なダーリントン卿とそこに仕えた日々の終焉を象徴するには、スティーブンスからすると物言いも立ち振る舞いも"新世界"で、いかにもアメリカ的なリーブ演ずる政治家で富豪、そして新しい主人Mr.ルイスの存在は効いてたと思いますね。そうそう、若き日のヒュー・グラントも出てます。
原作はどう書かれているんだろう、文字だけの文章からどういう風に自分の中で行間を埋めて画面を作って行くのだろう…なんて思います。他の作品も読んでみようかな。
ところで、スウェーデン・アカデミーが、イシグロ氏にノーベル文学賞を与えた際、「強い感情的な力を持つ小説を通し、世界と繋がっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた」作家と説明したけれど、凄く高尚過ぎてわかりません…。
そのあたりについてはこちらなど。
カズオ・イシグロの「信頼できない語り手」とは - NEWSWEEK
ふーむ、奥が深いのですね、私は信頼できない語り手にまんまとひっかかったのかしら…やっぱりこれは原作を読んでみなければ。
ところで、スウェーデン・アカデミーが、イシグロ氏にノーベル文学賞を与えた際、「強い感情的な力を持つ小説を通し、世界と繋がっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた」作家と説明したけれど、凄く高尚過ぎてわかりません…。
そのあたりについてはこちらなど。
カズオ・イシグロの「信頼できない語り手」とは - NEWSWEEK
ふーむ、奥が深いのですね、私は信頼できない語り手にまんまとひっかかったのかしら…やっぱりこれは原作を読んでみなければ。
by sohla
| 2017-11-22 14:13
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