2014年 03月 09日
fake
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やらせ映画「ガレキとラジオ」を一喝した役所広司の気骨
私の勤め先でも今週社内での上映会が予定されていて、予定がついたら観に行こうかなーと一応参加申し込みをしておいたのだけれど、昨日になってやらせ問題で上映中止、被災地を舞台にした他の映画を上映するとのメールが管掌部署から来てました。
私自身はやらせのニュースは知らなかったので、「何?やらせ??」と思ったんですが、ニュースを検索してみるとそういうことだったんですね。
震災記録映画でやらせ 女性にラジオを聴くふり強いる
普段聞いてもいないラジオを聴く振りをしてくれという要求に、ただ撮影に協力しただけの女性でさえ、恐らく不自然に思ったか不安に感じたか「大丈夫なの」と尋ねたほどなのに、監督をはじめ撮影に携わった多くのスタッフが、誰も何も思わなかったんだろうか。その女性はもちろん、他の出演者、現地の被災者、出来た映画を観た人たちをハメて欺いて馬鹿にしたのと同じなのに。
「(ラジオ放送として)CDで聴いてもらう演出はした。CDで聴いてもらって、ラジオとの接点がゼロではないと思った。それも広い意味でリスナーだと考えた」
でもさ、災害ラジオ局の電波が届いていなかったんなら、その時点で成り立たないストーリーで、CDで聴いてもらってとか、ラジオとの接点とか、広い意味でリスナーとか、そういうことはポイントではないと思う。
ドキュメンタリーでも演出はあるんだろうと思うけれど、事実と違う、無かったことを演出するのは私は100%NGだと思うし、リスナーをこれほど自分に都合よく広義に捉えて、それも堂々と当たり前のように言えてしまうところが、もう何かの感覚が麻痺しているか、欠落しているか、ただ単に傲慢なだけなのか、ちょっとわかりません。
そりゃ、"広い意味でリスナー"って、意味を拡大して拡大して拡大して、意味がなんだったかもわからなくなるほど無意味に拡大していけば、そういう理屈も通るのかもしれないけれど(笑)、もしかしてこの人たち、ラジオをラジオとして聴いたことも、ラジオをTVを観るように本気で聴いたことも、その時に番組を共有したことも、ラジオからの音や声を耳で聴いて頭と心で考えたことも無いのかも。
謝罪文を見ても、「みなさんがそういうのならそうなんだと思うのでごめんなさい」という感じで、なぜ問題なのかピンと来ていないような印象ですし。
確かに演出の線引きは難しいのかもしれないけれど、もしドキュメンタリーを撮るほどの深い深い洞察力があれば迂闊な演出はしなかった、というより直観がそうさせなかっただろうし、クリエイターが"クリエイト"しどころを間違えなかったのではないかと思うと、ナレーションで協力した役所さん自ら「この映画が世に出てしまったことが残念」、さらには「今後二度と上映されるべきものではありません」というのももっともだと思う。
でも、上映の中止をお願いしているので公の目に触れないようにするのかと思いきや、相変わらず公式サイトはそのまま公開されているし、YouTubeでは予告編も削除されていないし、謝罪もなぜかFBで、公式サイトに小さくFBへのリンクが張ってあるだけなのが不思議。何故公式サイトのトップできちっと謝罪を掲載しないのか、もう広告会社のやることはわからん。というか信用ならんって思われても仕方ない。表面的には謝罪の文面ではお詫びしているけれど、博報堂としては"そのままにしとけ"=ずっとFAKEのまま なんでしょうかね。
これ、上映料を頂いていたようだけれど、何らかの形で被災地へ還元されるようになっていたんだろうか。もし制作側の懐に入っているのならそれはないわなぁ。上映を主催した側からしたら「上映料返せ」ってとこだと思う。
さて、もうすぐ3.11。あれからもう3年なのか、まだ3年なのか。
来週は勤め先でも防災訓練があります。
私の勤め先でも今週社内での上映会が予定されていて、予定がついたら観に行こうかなーと一応参加申し込みをしておいたのだけれど、昨日になってやらせ問題で上映中止、被災地を舞台にした他の映画を上映するとのメールが管掌部署から来てました。
私自身はやらせのニュースは知らなかったので、「何?やらせ??」と思ったんですが、ニュースを検索してみるとそういうことだったんですね。
震災記録映画でやらせ 女性にラジオを聴くふり強いる
普段聞いてもいないラジオを聴く振りをしてくれという要求に、ただ撮影に協力しただけの女性でさえ、恐らく不自然に思ったか不安に感じたか「大丈夫なの」と尋ねたほどなのに、監督をはじめ撮影に携わった多くのスタッフが、誰も何も思わなかったんだろうか。その女性はもちろん、他の出演者、現地の被災者、出来た映画を観た人たちをハメて欺いて馬鹿にしたのと同じなのに。
「(ラジオ放送として)CDで聴いてもらう演出はした。CDで聴いてもらって、ラジオとの接点がゼロではないと思った。それも広い意味でリスナーだと考えた」
でもさ、災害ラジオ局の電波が届いていなかったんなら、その時点で成り立たないストーリーで、CDで聴いてもらってとか、ラジオとの接点とか、広い意味でリスナーとか、そういうことはポイントではないと思う。
ドキュメンタリーでも演出はあるんだろうと思うけれど、事実と違う、無かったことを演出するのは私は100%NGだと思うし、リスナーをこれほど自分に都合よく広義に捉えて、それも堂々と当たり前のように言えてしまうところが、もう何かの感覚が麻痺しているか、欠落しているか、ただ単に傲慢なだけなのか、ちょっとわかりません。
そりゃ、"広い意味でリスナー"って、意味を拡大して拡大して拡大して、意味がなんだったかもわからなくなるほど無意味に拡大していけば、そういう理屈も通るのかもしれないけれど(笑)、もしかしてこの人たち、ラジオをラジオとして聴いたことも、ラジオをTVを観るように本気で聴いたことも、その時に番組を共有したことも、ラジオからの音や声を耳で聴いて頭と心で考えたことも無いのかも。
謝罪文を見ても、「みなさんがそういうのならそうなんだと思うのでごめんなさい」という感じで、なぜ問題なのかピンと来ていないような印象ですし。
確かに演出の線引きは難しいのかもしれないけれど、もしドキュメンタリーを撮るほどの深い深い洞察力があれば迂闊な演出はしなかった、というより直観がそうさせなかっただろうし、クリエイターが"クリエイト"しどころを間違えなかったのではないかと思うと、ナレーションで協力した役所さん自ら「この映画が世に出てしまったことが残念」、さらには「今後二度と上映されるべきものではありません」というのももっともだと思う。
でも、上映の中止をお願いしているので公の目に触れないようにするのかと思いきや、相変わらず公式サイトはそのまま公開されているし、YouTubeでは予告編も削除されていないし、謝罪もなぜかFBで、公式サイトに小さくFBへのリンクが張ってあるだけなのが不思議。何故公式サイトのトップできちっと謝罪を掲載しないのか、もう広告会社のやることはわからん。というか信用ならんって思われても仕方ない。表面的には謝罪の文面ではお詫びしているけれど、博報堂としては"そのままにしとけ"=ずっとFAKEのまま なんでしょうかね。
これ、上映料を頂いていたようだけれど、何らかの形で被災地へ還元されるようになっていたんだろうか。もし制作側の懐に入っているのならそれはないわなぁ。上映を主催した側からしたら「上映料返せ」ってとこだと思う。
震災ドキュメンタリー映画「ガレキとラジオ」 やらせ報道受け制作者が謝罪
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1403/06/news078.htmlさて、もうすぐ3.11。あれからもう3年なのか、まだ3年なのか。
来週は勤め先でも防災訓練があります。
by sohla
| 2014-03-09 09:07
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